クロアゲハ

私が見たいとせがんだのか

父の気まぐれだったのか、

今となっては知るすべもない。

 

ただ覚えているのは、

視界いっぱいに広がる無数のクロアゲハ。

耳を澄ませばキラキラと音が聞こえてきそうなほど

眩くはためいた黒い翅が、

今も目に焼き付いて離れないのだ。

 

 

それが私の最古の記憶。

 

あのとき父は確実に

「父親」の顔をしていた。

 

していたんだと思う。

 

記憶の中のその表情は

鬱蒼と生い茂る木々の影に隠されている。

 

 

 

父は私が小学2年か3年の頃に死んだ。

 

2年か3年、としか覚えていないのは

私がこの頃のことをぼんやりとしか

思い出せないから。

 

とにかく、

父は世界から消えてしまった。

 

 

 

 

あれは何年前だっただろうか、

眠れずに弟と長々とlineをやり取りしていた時だ。

 

「お父さんのお墓ってどこにあるんだろうね」

 

確かわたしから言い出したと思う。

どんな話の流れだったのかは忘れた。

 

そう、私と弟は

実の父親の墓の場所を知らない。

 

何故そんなことになったかというと、

母がそれを嫌がったからだ。

 

父の死後、

母は私と弟から父の存在を

徹底的に排除しようと躍起になっていた。

 

葬式はもちろん参加していないし、

そもそもきちんと葬式をあげたのかすら定かではない。

 

死因は心臓発作であるとだけ、

親戚たちの会話を盗み聞きして知った。

 

実の父親の死について何も知らない。

 

このことに違和感を抱きながらも、

私たち幼い兄弟には

それを受け入れるしかなかった。

 

好意的に捉えるとしたら、

私たちの中にトラウマを

残さないためだったのかもしれない。

 

決して良い父親とはいえない、

飲む打つ買うの三拍子。

酒に酔えば声を荒げ、

母に暴力をふるうこともあった父。

 

そんな父の存在が

また未発達な心に暗い影を残さないよう、

母なりに考えた結果なのだろう。

 

死とともに、私たちの脳内から

父の存在を消す。

 

確かに、私自身が父を慕っていたかといえば

断じてそうではないと言い切れる。

 

私は父を恐れていた。好きではなかった。

 

泥酔して血走った眼をこちらに向けるのも、

困ったことがあると甘やかしてくれる自分の兄弟に

連絡を取るところも、

暴力的なところも、反吐が出るほど大嫌いだ。

 

学校の行事だって、

一度たりとも来てくれたことはなく

夏休みの作文が市で表彰されたときも

運動会の徒競走で一位になったときも

褒めてはくれなかった。

 

 

 

 

それでも、と思う。

 

 

それでも、

どうしてもクロアゲハの思い出が

わたしをあの日に呼び戻す。

 

 

愛してほしかった。

植物や生き物に詳しい父に、

もっとたくさんのことを教わりたかった。

 

好きではなかったけど、

好きになる努力をすればよかった。

 

人を愛するのが下手くそで孤独な父に、

もっと寄り添えばよかった。

 

 

しかし、父はこの世界のどこにもいない。

声すらもう思い出せなくなっている。

 

 

 

何日か前のことだ。

 

以前付き合っていた男性から、

一枚の写真が送られてきた。

 

「これ、覚えてる?」

 

 

ある夏、二人で観光地に出かけて

古民家を改装したカフェで

かき氷を食べたときの写真。

 

よく覚えている。

うだるような暑さにバテて

半ば避難するように入ったカフェ。

 

大きな窓が開け放たれていて、

よく手入れされた庭には

色鮮やかな夏の花とともに

みかんの木が植えられていた。

 

そこに、一羽のクロアゲハが迷い込む。

 

 

「俺、この蝶々好きじゃない。

模様が目玉みたいで不気味」

 

彼は苦々しい顔でそう言った。

 

「これ、メスだね」

 

そう呟くわたしに、

彼は少しだけ関心したような声を上げる。

 

「へぇ、分かるんだ」

 

「うん、オスはこの赤い模様が翅の裏側にしかなくて

メスは…」

 

 

メスは両側に模様がついている。

 

 

ぎくりとした。

何故こんな知識があるのか、

どこで覚えたのか。

 

父があの日、

わたしに教えてくれたのだ。

 

紛れもなく、

「父親」の顔をした父が。

 

 

 

なんてことだろう。

父はこんなところにいたのか。

 

イラガの幼虫には毒のとげがあって

触れると痛いことも、

スズメバチがカチカチという威嚇音を出すことも、

教えてくれたのは父だったじゃないか。

 

 

世界から消滅したと思っていた父は、

わたしの知識の中にいた。

 

 

 

わたしはまだ、墓参りには行けない。

向き合うには、心の容量が少しだけ足りないから。

 

いつかそのうちきっと、

この人生を終える前に

父に花を手向けられたらと思う。

 

 

 

またクロアゲハが飛び交う夏がくる。