海と傷

高校のときバイトしていたカフェのオーナーが

元漁師さんだった。

 

年齢は当時50そこそこで、

よく日に焼けた顔に

ごわごわした髭を生やしていた。

 

あまり深く聞いたことはないが、

漁に出たときに事故に遭い

このままでは死んでしまうと思って

船を降りてカフェを始めたらしい。

 

口数は少ないが、

発する言葉にはユーモアがあり

人懐こい田舎のおじさん。

 

わたしはオーナーの

人柄が好きだった。

 

 

バイトは学校が終わった17時頃から

22時頃まで。

部活を辞めてしまったわたしには

ちょうどいい暇つぶしだった。

 

客層はちょっと背伸びした高校生から

近所のおばあさんまで幅広く、

特に仕事帰りの癒しのひと時に使う

サラリーマンが多かったように思う。

 

 

あるとき、こんなことがあった。

4人組で来店した男性たちが、

わたしをからかい出して

「こっち座りなよ」などとはしゃぎ始めた。

 

どうしたものかと思っていると、

カウンターの中からマスターの声が飛んでくる。

 

「いい加減にしとけよ」

 

決して怒鳴り声ではないのだが、

地の底が震えるようなドスの利いた声で

調子に乗った彼らをおとなしくさせるには十分だった。

 

その様子を見届けると、

オーナーはいつものふわりとした笑顔に戻り

「すいませんねぇ」とカウンターのお客さんたちに

声をかける。

 

その日のバイトが終わり、

わたしはオーナーに改めてお礼を言った。

 

「感謝されろようなことじゃねぇよう」と

オーナーは照れくさそうに笑ったが、

その後こう言葉をかけてくれた。

 

「人を嫌いにならないでくれな」

 

そして一冊の写真集を

わたしに貸してくれたのだった。

 

南の島の、真っ青な海。

ページをめくるごとに、

雄大な自然が目に飛び込む。

 

「海はな、いいんだ」

 

オーナーはよくそんなことを言っていた。

 

 

バイトを始めて一年ぐらいが経った頃、

わたしの人生が大きく変わる出来事が起きる。

 

それによってわたしは身体に傷を負い、

遠い町へ引っ越すことに。

 

その出来事は町中の人が知っていて、

わたしにはカーテンを開けることすら難しく

ましてや外を歩くなんてもってのほかだった。

 

バイト先には何の連絡も入れていない。

向こうからも音沙汰がないということは、

オーナーも事情を知ったのだろう。

 

暗い部屋で思う。

あの店のコーヒー、美味しかったな。

 

そのとき、ふと写真集が目に入る。

 

海、サンゴ、カラフルな魚。

 

返さないと。

返して、オーナーにさよならを言わないと。

 

わたしは部屋着のままで

あのカフェへと向かった。

 

 

 

閉店直後の店には明かりが灯っているが、

入口のドアは鍵がかけられていた。

 

裏口へ回ろうか、

このまま帰ってしまおうか…

 

 

そんなことを考えていると、

目の前のドアが勢いよく開く。

 

「どうしたんだ」

 

驚いたように目を見開くオーナーは

半ば強引に店内へとわたしを引き込んだ。

 

「怪我は?もう大丈夫なのか」

 

やはりオーナーは知っていた。

 

わたしは無言のまま

写真集を差し出す。

 

「これ…わざわざいいのに」

 

写真集を受け取ったオーナーは、

我が子に向けるような目で

わたしを眺めていた。

 

「わたし、引っ越すんです。

だから、今までお世話になりました」

 

深々をお辞儀をするわたしに顔を上げさせて、

カウンターに座るように促すオーナー。

 

静まり返った店内には、

コポコポとコーヒーを淹れる音だけが響く。

 

そっと口をつけると、

香りが身体いっぱいに広がって

久しぶりにほっとした気がした。

 

「あのな、」

 

オーナーはそう言って

おもむろに自分のシャツをたくし上げた。

 

突然のことに驚いたが、

目に飛び込んできたものに言葉を失った。

 

 

鎖骨から足の付け根まで

真っ直ぐに伸びた太く白い線。

 

傷跡。

 

わたしは金縛りになったように、

身動きひとつ取れないまま

それを見つめていた。

 

オーナーはシャツを直し、

自分の分のコーヒーを淹れながら

ぽつりぽつりと話してくれる。

 

これが漁師のときの事故で

できた傷だということ。

 

そして、

 

「未だに温泉なんかで服を脱ぐときは緊張するし、

じろじろ見てくるやつを張っ倒したくなる。

でもな、」

 

 

両手でコーヒーカップを持ち、

じっと話を聞いていたわたしの目を

しっかりと見つめてオーナーはこう言った。

 

「傷跡がなんだって思ってくれるやつが

必ず現れる。必ずだ」

 

 

伏せた目から零れる涙。

次から次へと溢れるそれは、

温かくて心地よかった。

 

「だから、大丈夫だ。大丈夫」

 

わたしは壊れたおもちゃのように

何度も何度も頷いた。

 

 

 

別れ際、オーナーはわたしの頭を二回

ぽんぽんと叩いた。

 

「元気でな」

 

 

優しいまなざしで送り出してくれるオーナーに

わたしは何度も振り返って、

何度も何度も大きく手を振った。

 

さよなら、どうかオーナーもお元気で。

 

 

 

 

オーナーの言う通り、

月日が経った今わたしは「大丈夫」になった。

 

そしてたまに開くのだ。

海、サンゴ、カラフルな魚。

そしてオーナーの愛した美しい青の写真集を。