ノート

打っては、消す。

 

自分の気持ちをひとつずつ確かめるように

文章を作るこの時間がたまらなく好きだ。

 

 

それは、小学生の頃から変わらない。

 

お年玉で買ったピンク色のノートに物語を書いては

紙が破れないように消しゴムで優しく擦り、

そして新しい物語を書く。

 

誰に読ませるわけでもないけど、

わたしはそんな行為に耽る子どもだった。

 

 

「どうしたらこんなお話が思い付くの?」

 

興味を持ってくれたのは、

小5のときの担任、鈴木先生だった。

 

友達ともよく遊ぶわりに

ふとしたときに自分の世界に閉じこもるわたしが

少し心配だったのかもしれない。

 

 

自分以外が物語を読むのは照れくさくて

わたしは「いや?」なんて曖昧に

返答したと思う。

 

でも本当は弾けそうなほど嬉しくて、

わたしはさらに紙と向き合うことに没頭した。

 

 

お姫様と勇者の話、

動物たちのパーティーの話、

小さな女の子の大冒険。

 

どこかで読んだことのあるような話ばかりだけど、

鈴木先生はいつも大袈裟に驚くふりをして

たくさんたくさん褒めてくれた。

 

ここの文章を変えたほうがいいと

きちんとアドバイスもくれた。

 

そしてあるとき、

市の作文コンクールに出してみない?と

声をかけてもらった。

 

 

そのときの感情は覚えていないけど、

少しだけ複雑な気持ちでいたと思う。

 

好きで書いているものを

全く知らない大人に評価されるのは

嫌だ、というよりも不愉快だ。

 

だけどわたしは首を縦に振る。

 

鈴木先生に喜んでほしかったから。

 

 

 

 

 

コンクール用の作文は、

誰かに読ませる前に破いて捨てた。

 

まだ子どもだったわたしには

自分の中の激しさを飼いならすことが

できなかったのだ。

 

何故と言われると答えるのは難しい。

とにかく細かく細かく破いてしまうのが、

この物語には一番美しいのだと思った。

 

 

わたしは書くことをやめた。

 

 

煙草をいたずらして

学校に通報されたのはこの頃。

 

鈴木先生は悲しそうな顔をしていた。

 

「がっかりした」と言われたのを覚えている。

 

「どうして?」とも聞かれた。

 

どうしてなのだろう。

自分のことなのに、

説明できないことが恥ずかしかった。

 

 

理由なんかなかったんだろう。

ほんの興味本位、軽はずみ。

 

「ごめんなさい、もうしません」と

口にする唇は震える。

 

 

 

それと同時に訪れる興奮。

 

 

怒ったり悲しんだりする大人たちに

「ざまぁみろ」と思った。

 

勝手に期待して、

思い通りにいかないわたしを

ダメなやつだと言い切る大人。

 

あぁなんだ、

大人なんかちっとも立派じゃない。

 

今思えばこれが、

わたしの思春期の始まりだったのだと思う。

 

 

 

今日またひとつ歳を取った。

 

たまにひょっこりと顔を出す

波のような荒々しさを

押さえつけることがうまくなった。

 

自分の行動や感情に

無理矢理理屈をつけることだってできる。

 

 

でもやっぱり大人なんか立派じゃない。

 

誰かに勝手に期待して、

勝手にがっかりしてしまう。

 

 

立派じゃないわたしたちが

必死にもがく姿は惨めで情けなくて、

途方もないほど美しいのだ。

 

 

美しいものを書き留めたいから、

わたしはキーボードを叩くことをやめない。

美しい人(長い)

 

彼は有名人だった。

世に必要とされていて、

誰もがその美しい容姿に溜息をついた。

 

 

出会ったのは、仲間内の飲み会。

 

輪の真ん中ではしゃぐ彼に、

「やっぱり陽キャなんだな」って思った。

 

 

しばらくしてみんな酔いが回り、

騒ぐのにも疲れたころ

彼はわたしの耳元でこう囁いた。

 

「帰るならこのタイミングだよ」

 

見透かされていた。

キラキラしたこの空間に

全く馴染めていないことを。

 

また何か言っているけど、

今度は誰かの声に遮られて

よく聞こえない。

 

浮いてるやつは帰れってこと?

いや、そのときのわたしはだいぶ酔っていて

かなり好意的に捉えたのを覚えている。

 

お礼を言って荷物をまとめ、

隙をついてその場を後にした。

 

 

これが彼との出会いだった。

 

 

その後も何度か共通の友達を介して顔を合わせて、

連絡先を交換するまでになる。

 

だけどわたしは連絡がマメな方ではなく、

忙しい彼にもそれを求めることはなかった。

 

 

そして、ある飲み会でのこと。

 

仲間内の誰かの誕生日だったかと思う。

 

みんないつも以上にテンションが高く、

ちょっと覚えてないぐらいに

コカボムを飲ませられた。

 

天井がぐるぐる回る。

ジーンズを穿いてきてよかった。

スカートだったらパンツ丸見えだ。

 

あぁ、本当にこの空間が嫌い。

 

 

すっかり泥酔した目で

趣味の悪いシャンデリアを眺めていると、

視界にひょっこりと綺麗な顔が飛び込む。

 

「何してんの」

 

彼の声は聞いたことがないぐらい

冷ややかで、

すぅっと酔いが醒めるのを感じた。

 

「水、いる?」

 

わたしは頑なに首を横に振る。

 

「いいから」

 

ほとんど無理矢理水を飲ませられて、

わたしは少し噎せた。

 

ぼーっとした頭で彼を見つめていると、

ほら行くよと腕を掴んで立ち上がらされる。

 

出口へ向かう途中、

誰かにぶつかった気がしたが

わたしにはもうそんなの気にする余裕はなく

ただわたしの腕を引く彼の後頭部を見つめた。

 

このままホテルに連れ込まれるのだろう。

お持ち帰りか、いやだな。

まぁでも仕方ないか、

酔っぱらったのはわたしのせいだし。

 

よく働かない頭のまま、

キンと冷えた外の空気を吸い込むと

久しぶりに煙草を吸ったときのように

くらくらとした。

 

彼はまだわたしの腕を掴んでいる。

向かう先はどうやらホテルではないらしい。

 

互いに無言のまま5分ほど歩くと、

彼はふいに立ち止まった。

 

そして振り向きながら、

さっきと同じように冷たい声でこう言った。

 

「気をつけろって言っただろ」

 

そんなこと言われたっけ?

あぁ、あのときかな。

 

初めて会った夜、

聞こえずに流したのは

わたしに注意を促す言葉だったのか。

 

「ごめん」

 

思わず謝ってしまったが、

正直言って何故彼に謝らなければならないのか

わたしにはよくわからなかった。

 

 

その後、わたしたちは

コンビニでホットコーヒーを買って

近くの公園のベンチとも言えないような

丸太に腰掛けて

しばらく何でもないことを話した。

 

こんなところに女といて、

週刊誌に撮られたりしないのかと尋ねるが

「あー」だの「そうだねー」だのと

軽い返答しか返ってこず

わたしもそのうち気にするのをやめた。

 

 

何が好きかとか

どんな幼少期を過ごしたかとか

とにかく色々なことを話した。

 

ただ、話すだけだった。

 

年の瀬の明け方、

手がしびれるような寒さの中

寄り添いあって切れ間なく話す。

 

もうこれから先、

二度と会えないかのように。

 

 

 

空が白んで朝を迎えたころ、

彼はアプリでタクシーを手配しながら

ぼそりとこう呟いた。

 

「俺たちって似てるね」

 

そしてわたしの返答を待たずに続ける。

 

「でも、絶対にこっち側に来ちゃダメだよ」

 

こっち側が何を指すのか

今でもよく分からない。

 

ただそのときのわたしは

眉尻を下げて笑う彼が

どうしようもなく寂しそうに見えて

ひりひりした痛みを胸に感じていた。

 

 

それからしばらくして

世界はコロナ禍に包まれることになる。

 

彼とは相変わらず

ごくたまに連絡を取り合うのみで、

会う約束を取り付けることもしなかった。

 

またそのうち誰かの飲み会で

顔を合わせるだろう。

 

そのとき、わたしは何事もなかったように

よそよそしく振る舞うし

彼にとってもそれがいいのだと思う。

 

わたしは一般人で、

彼は芸能人なのだから。

 

 

 

 

ある日のこと。

 

 

夕方ごろだっただろうか、

Twitterのタイムラインがざわついていることに気づく。

 

その瞬間、わたしは突き落とされた。

寒いねと言い合ったあの日よりも

ずっと冷たくて凍えそうな奈落の底に。

 

 

 

俳優 ○○死亡 自殺とみられる

 

 

 

 

 

苦しい。

息がうまく吸えない。手が痺れる。

何も分からない。

持っていき場のない感情が溢れて、

声にならない声を上げ続けた。

 

彼が死んだ。

 

どうして、どうして、

こんなの絶対に現実じゃない。

 

 

どれだけ叫んでも、泣いてみても、

事実が変わることはなく

テレビやネットでは連日彼の死が

しきりに話題に挙げられていた。

 

それもいつしか落ち着き、

世間は次の話題へ食いつく。

 

わたしも薄紙を剥ぐように日常を取り戻し、

彼のことは考えないようにしていた。

 

彼はもういないのだ。

 

 

5キロ痩せた腹いせに6キロ太った。

気に入った男と酒を飲んだ。

伸ばしていた前髪を短く切った。

スマホを壊してしまって

彼とのトーク履歴が消えた。

 

 

それでもなお、心はどんよりと曇る。

その理由を分かってはいたはずなのに、

わたしにはそこから逃げ続けるしかできなかった。

 

どうにもならないことを

大真面目に考え込んでも仕方ない。

 

 

友人のひとりが死んだ。

それだけ、と言ったら聞こえが悪いだろうか。

 

 

 

そんな毎日を送っていたら、

わたしの前にひとつの奇跡が舞い降りる。

 

好きな男ができた。

 

 

 

わたしはこれまで

「好きだ」と言葉にすることを避けてきた。

 

パートナーを一人に絞ることを嫌い、

間違っても愛し合うようなことは

したくなかったから。

 

言葉には責任を持たなければならない。

 

それなのに、

わたしは気付けばその人に好きだと

本当に好きなのだと伝えていた。

 

涙が出るほどに愛おしく思っていた。

 

その人は言った。

「これが恋なのだ」と。

 

 

そうか、これが。

自棄になっていた身体は宙に浮くようで、

視界がクリアになった気がした。

 

前に進めるのだと思う。

 

 

 

言葉にしてしまえば

それは具現化してしまう。

 

わたしにはそれが恐ろしく、

立ち回りがうまいふりをして

臆病に逃げ続けてきた。

 

 

あのとき、

わたしは確かに彼に恋をしていた。

 

好きだった。

 

まだ何も伝えてない。

そして、二度とそれは叶うことはない。

 

 

でも、思うのだ。

彼がこの世界に存在し続けたとしても

わたしたちは恋愛にならなかっただろう。

 

男女として振る舞うには

あまりに似すぎていた。

 

それにわたしは一般人で、

彼は芸能人なのだから。

 

 

 

友人のひとりが死んだだけ。

だが、自分の半身をなくしてしまったかのように

深い深い喪失感を感じた。

 

それほどまでにわたしたちは「同じ」だった。

 

 

「こっち側」がもし、仮に、万が一、

彼がいってしまった場所を指すとしたら、

もう心配しないでくれ、と思う。

 

わたしの居場所はここだと決めたから。

 

 

 

わたしは美しい男に恋をした。

 

この気持ちはわたしだけのもの。

綺麗な箱にきちんと入れて、

心の奥の安定したところに仕舞っておくのだ。

 

 


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海と傷

高校のときバイトしていたカフェのオーナーが

元漁師さんだった。

 

年齢は当時50そこそこで、

よく日に焼けた顔に

ごわごわした髭を生やしていた。

 

あまり深く聞いたことはないが、

漁に出たときに事故に遭い

このままでは死んでしまうと思って

船を降りてカフェを始めたらしい。

 

口数は少ないが、

発する言葉にはユーモアがあり

人懐こい田舎のおじさん。

 

わたしはオーナーの

人柄が好きだった。

 

 

バイトは学校が終わった17時頃から

22時頃まで。

部活を辞めてしまったわたしには

ちょうどいい暇つぶしだった。

 

客層はちょっと背伸びした高校生から

近所のおばあさんまで幅広く、

特に仕事帰りの癒しのひと時に使う

サラリーマンが多かったように思う。

 

 

あるとき、こんなことがあった。

4人組で来店した男性たちが、

わたしをからかい出して

「こっち座りなよ」などとはしゃぎ始めた。

 

どうしたものかと思っていると、

カウンターの中からマスターの声が飛んでくる。

 

「いい加減にしとけよ」

 

決して怒鳴り声ではないのだが、

地の底が震えるようなドスの利いた声で

調子に乗った彼らをおとなしくさせるには十分だった。

 

その様子を見届けると、

オーナーはいつものふわりとした笑顔に戻り

「すいませんねぇ」とカウンターのお客さんたちに

声をかける。

 

その日のバイトが終わり、

わたしはオーナーに改めてお礼を言った。

 

「感謝されろようなことじゃねぇよう」と

オーナーは照れくさそうに笑ったが、

その後こう言葉をかけてくれた。

 

「人を嫌いにならないでくれな」

 

そして一冊の写真集を

わたしに貸してくれたのだった。

 

南の島の、真っ青な海。

ページをめくるごとに、

雄大な自然が目に飛び込む。

 

「海はな、いいんだ」

 

オーナーはよくそんなことを言っていた。

 

 

バイトを始めて一年ぐらいが経った頃、

わたしの人生が大きく変わる出来事が起きる。

 

それによってわたしは身体に傷を負い、

遠い町へ引っ越すことに。

 

その出来事は町中の人が知っていて、

わたしにはカーテンを開けることすら難しく

ましてや外を歩くなんてもってのほかだった。

 

バイト先には何の連絡も入れていない。

向こうからも音沙汰がないということは、

オーナーも事情を知ったのだろう。

 

暗い部屋で思う。

あの店のコーヒー、美味しかったな。

 

そのとき、ふと写真集が目に入る。

 

海、サンゴ、カラフルな魚。

 

返さないと。

返して、オーナーにさよならを言わないと。

 

わたしは部屋着のままで

あのカフェへと向かった。

 

 

 

閉店直後の店には明かりが灯っているが、

入口のドアは鍵がかけられていた。

 

裏口へ回ろうか、

このまま帰ってしまおうか…

 

 

そんなことを考えていると、

目の前のドアが勢いよく開く。

 

「どうしたんだ」

 

驚いたように目を見開くオーナーは

半ば強引に店内へとわたしを引き込んだ。

 

「怪我は?もう大丈夫なのか」

 

やはりオーナーは知っていた。

 

わたしは無言のまま

写真集を差し出す。

 

「これ…わざわざいいのに」

 

写真集を受け取ったオーナーは、

我が子に向けるような目で

わたしを眺めていた。

 

「わたし、引っ越すんです。

だから、今までお世話になりました」

 

深々をお辞儀をするわたしに顔を上げさせて、

カウンターに座るように促すオーナー。

 

静まり返った店内には、

コポコポとコーヒーを淹れる音だけが響く。

 

そっと口をつけると、

香りが身体いっぱいに広がって

久しぶりにほっとした気がした。

 

「あのな、」

 

オーナーはそう言って

おもむろに自分のシャツをたくし上げた。

 

突然のことに驚いたが、

目に飛び込んできたものに言葉を失った。

 

 

鎖骨から足の付け根まで

真っ直ぐに伸びた太く白い線。

 

傷跡。

 

わたしは金縛りになったように、

身動きひとつ取れないまま

それを見つめていた。

 

オーナーはシャツを直し、

自分の分のコーヒーを淹れながら

ぽつりぽつりと話してくれる。

 

これが漁師のときの事故で

できた傷だということ。

 

そして、

 

「未だに温泉なんかで服を脱ぐときは緊張するし、

じろじろ見てくるやつを張っ倒したくなる。

でもな、」

 

 

両手でコーヒーカップを持ち、

じっと話を聞いていたわたしの目を

しっかりと見つめてオーナーはこう言った。

 

「傷跡がなんだって思ってくれるやつが

必ず現れる。必ずだ」

 

 

伏せた目から零れる涙。

次から次へと溢れるそれは、

温かくて心地よかった。

 

「だから、大丈夫だ。大丈夫」

 

わたしは壊れたおもちゃのように

何度も何度も頷いた。

 

 

 

別れ際、オーナーはわたしの頭を二回

ぽんぽんと叩いた。

 

「元気でな」

 

 

優しいまなざしで送り出してくれるオーナーに

わたしは何度も振り返って、

何度も何度も大きく手を振った。

 

さよなら、どうかオーナーもお元気で。

 

 

 

 

オーナーの言う通り、

月日が経った今わたしは「大丈夫」になった。

 

そしてたまに開くのだ。

海、サンゴ、カラフルな魚。

そしてオーナーの愛した美しい青の写真集を。

口元を触る癖がある。

 

手のひらで覆ったり、

爪でちょんちょんと唇をつついたり、

とにかくわたしはあらゆる方法で口元を触る。

 

コロナ禍に入ってからは

マスクをしていたから

自然とその癖は封印されていたが、

気付けばまた復活している。

 

 

心理学的には、

不安を感じているあらわれらしいが

果たして本当にそうだろうかと考えてみる。

 

と、思ったが

とにかく常に触っているので

どんな状況下で癖が発動されるのか

仮説を立てるのすら難しい。

 

 

角度を変えてみる。

 

一体いつからわたしは

口元をこねくり回すようになったのか。

 

覚えているのは中学生のとき。

 

部活の顧問に癖を指摘されたことがある。

彼がいうには、

特にハーフ球を狙っているときに

発動されることが多いというのだ。

 

そんなわけあるか、

何を言ってるんだと思った。

 

それはそうだ、

本人は無自覚なのだから。

 

試合の時のビデオを見せられて、

わたしは膝から崩れ落ちる。

 

めちゃくちゃ触ってる。

 

落ち着いた展開のときは

一切触らないのに、

競り出した途端にこれでもかと触り出す。

 

そして案の定その直後にハーフ球。

 

これでは初対戦の相手でも

少々勘がよければすぐに気づくだろう。

 

どうりで読まれるわけだ。

 

そのときに癖を直したはずなのだが、

今まさに指の第一関節あたりで

唇をもてあそんでいるのだから

話がおかしい。

 

部活でのことを思い出せば

緊張する場面で発動されるのだろうと

考えられなくもないのだが、

一体わたしは今何に緊張しているというのか。

 

しんと静まり返った自宅で、

時刻は午前四時台。

 

煙草を吸いながら

気ままにキーボードを叩いているのが

緊張状態だとは言い難い。

 

 

途端に諦めに似た気持ちが湧いてくる。

 

人に迷惑をかける癖じゃないから、

まぁいいか。

 

心理学的に、なんて

深く学んだわけでもないし

適応されるかどうかも怪しい。

 

手を綺麗にしていれば、

特に問題はないはずだ。

 

これを結論とすることにしよう。

 

 

次は左目を細める癖について考えなければ。

泥団子(めちゃ長い)

和泉という友人がいた。

 

彼とは幼稚園が一緒で、

小学校で離れたのだが

中学で同じクラスになり再会した。

 

久しぶりに会う和泉はかなり身長が伸びていて

中一の時点で180cmもあり、

すっかり男性になっていた。

 

幼稚園の頃は女の子みたいに華奢で

園の行事で河童に扮した園長に追いかけられて、

この世の終わりかのように大泣きしていたのに。

 

たいそうな成長ぶりに驚いたわたしが

このエピソードを話すと、

和泉は顔を真っ赤にしてそっぽを向く。

 

怒り方が思春期らしくて、

同い年のはずのわたしは何故だか微笑ましく思った。

 

 

そんな和泉は、

あるときわたしの友人と付き合い始めることになる。

 

決して美形ではないけれど、

切れ長で涼し気な目をしていて

彼には一定のファンがいたように思う。

 

そしてわたしの友人もその一人だったのだ。

 

「和泉くんと付き合うことになったんだ」

 

部活の片付けをしていたわたしのところまでわざわざ来て、

そう話してくれた友人・里香は

わたしのラケットを指先でいじりながら

少し恥ずかしそうにしていた。

 

里香の長いまつ毛が微かに揺れて、

緊張しているのが見て取れる。

 

今になって思えば、

きっとわたしも和泉のことが好きなのだと

里香は思い込んでいたんだろう。

 

しかし、わたしには一切その気がなく

そして和泉もまたわたしに恋心や

やましい気持ちを抱いていないと断言できた。

 

むしろ仲のいい友人同士が

カップルになることはとても喜ばしく、

帰り道に恋バナに花を咲かせたことは言うまでもない。

 

ただひとつ思うことがあるとすれば、

気軽に和泉と遊べなくなるのは

ほんの少しだけ悲しかった。

 

 

 

しかし、2人は夏休みに入る前に別れてしまう。

交際期間は1か月にも満たなかったと思う。

 

中学生の恋愛ごっこなど

数日で終わるなんてことはよくある話。

 

まわりにも数え切れないほど

そんな恋愛未満な男女が転がっていたし、

わたし自身にもそんな経験がある。

 

いくら背伸びをして「付き合う」だ「恋人」だと言っても、

所詮まだまだ子どもなのだ。

 

 

振られた形になった里香は

2日ほど泣いたり自棄になったりしていたが、

夏休みが半分過ぎた頃には

新しい恋を見つけていた。

 

 

そのうちわたしは別の仲良しグループができ、

2人とはいつの間にかつるまなくなる。

 

 

いくつかの季節が過ぎて、

わたしたちは中3になった。

 

わたしは当時中学最後の大会を

目前に控えていて、

なおかつやや難関校への進学を考えていたので

絵にかいたように時間に追われる生活をしていた。

 

あれは7月のはじめ頃だったと思う。

 

睡眠不足の身体に

無理矢理朝食を押し込んでいるところに届く一通のメール。

 

「今日学校サボんね?」

 

和泉からだった。

 

何を言っているんだか。

わたしには徒に消費できる時間などない。

 

ましてや一限目には数学の小テストがある。

 

 

わたしは小さく溜息をついて、

こう返信した。

 

 

「いいよ」

 

 

 

指定された場所に行くと

和泉はもう到着していて、

Yシャツの袖を肘まで捲った腕を

こちらに向けてぶんぶん振っていた。

 

ここはわたしたちがよくつるんでいた頃、

集合場所にしていた公園。

 

階段で登れる見晴らし台があり、

小さな海街を一望することができる。

 

かっこつけて煙草を吸って

警察を呼ばれたのもこの公園だ。

 

 

初夏の日差しにうっすらと汗ばんだ和泉の額は、

こんがりと日焼けしている。

 

「泥団子、作んね?」

 

にんまりと笑い、

そう言いながら子供用のスコップを

わたしにグイと押し付ける和泉。

 

わたしはそれを受け取り、

「任せろ」と小さく答えた。

 

 

何時間そこにいただろう。

気付けば太陽は真上から少し傾き、

近くの民家からはいいとものエンディングが聞こえる。

 

わたしと和泉はほぼ会話せず、

一心不乱に泥団子を作り続けていた。

 

ぴかぴかに仕上げるにはコツがいる。

さらさらの砂をまぶした後、

柔らかい布でそっと優しく磨くのだ。

 

ちょうどいい布がなかったので、

わたしは部活で使うサポーターで磨いた。

 

 

「ほら」

 

和泉が自慢げに差し出した完成品の泥団子は

わたしのものより一回り小さいが

面が鏡のように美しい。

 

しかしわたしは負けず嫌いで、

「小さいね、背はでかいのにね」なんて

からかうように言う。

 

 

顔を真っ赤にして怒るかと思ったのに、

和泉はへらっと笑ってこう言った。

 

「本当だな!」

 

わたしのからかいを意に介せず、

和泉はただニコニコしている。

 

あぁ、どうして一人だけ

大人になっていってしまうの。

 

大きいけれど目の粗い泥団子を

手のひらに乗せたまま、

わたしは何だか泣きそうになった。

 

すると和泉はおもむろに立ち上がり、

乾き始めた手の泥をぱんぱんと払う。

 

そして自転車にまたがりながら、

和泉はまたにんまり笑う。

 

「海でも行くか」

 

「海ならすぐそこにあるじゃん」

 

「馬鹿、もっとすげー海だよ」

 

 

すげー海、という幼稚な表現は

幼稚なわたしにはとても魅力的で

言われるがままに和泉の後ろに乗るのだった。

 

 

この時間に2人乗りをしている中学生は

とても目立つ。

 

すれ違う大人全員が

わたしたちを怪訝そうに見た。

 

怒ったような顔を向けるおばちゃんもいた。

 

だがそんなのおかまいなしに、

わたしと和泉は「イエーイ」とか

「うおー」なんて言いながら

大きな声で笑い合う。

 

ちゃんと掴まれよなんて言われたけど、

わたしは頑なにそうせずに

身体をのけぞらせて荷台の端を掴んだ。

 

だって和泉の背中はもう

河童で泣いていた男の子じゃなく

一人の立派な男性だったから、

わたしには恥ずかしくて

その身体に腕を回すことなどできなかった。

 

 

しばらく自転車を走らせ、

和泉はスピードを落としながら

やがてゆっくりと止まった。

 

荷台からひょいと飛び降りて

辺りを見渡す。

 

「すげー海、ないじゃん」

 

目の前に、確かに海はあった。

 

だがそこは昆布だかわかめだか海苔だかを

養殖しているようなだいぶ透明度の低い海だ。

 

「もっと遠くに行けるはずだったんだけどなぁ」

 

そうぼそぼそと言う和泉は、

首にかけたタオルで汗を拭きながら

大きな手でわたしの崩れた前髪を直す。

 

「まぁ、でもいいよ」

 

わたしたちは自販機で

アクエリアスを一本ずつ買って砂浜に降り、

古びた小さな船に背中を預けて座った。

 

そしてくだらない話をたくさんした。

 

最近MDに入れた曲や、

昨日のドラマのこと。

 

数学の佐藤先生が

奥さんと喧嘩したらしいという噂話、

部活のこと、友達のこと、

そして将来のこと。

 

「和泉は高校出た後、

東京の大学いくの?」

 

「いや、」

 

空になったペットボトルを

爪の先でコンコンと叩きながら和泉は言う。

 

「就職する」

 

「えっなんで、もったいない」

 

今思えばとんでもなく失礼な言いぐさだったと思う。

 

でもそのときのわたしは

本当にもったいないと思ったのだ。

 

和泉はずば抜けてというわけではないが、

成績がよく部活でも結果を残していたから。

 

それに、わたしと和泉は

志をともにしていたことがある。

 

パイロットになろう」と、

航空大学校のホームページを見ながら

熱く語り合ったっけ。

 

わたしがそれを諦めざるを得ないようになってから、

2人の間でこの話はタブーになっている。

 

 

 

驚くわたしの顔をちらりと見た後

海へと視線を戻す和泉の横顔は

困ったようにも悲しんでいるようにも見えた。

 

そして、

「親、離婚するんだって」

 

元々家へほとんど帰ってこなかった父親が

よそで別の家族を作っており

本格的に離婚が決まりそうだと。

 

和泉は母親についていくことにして、

女手ひとつで生活していくには不安だろうから

歳の離れた二人の弟のためにも

大学へは行かずに就職して

家族の面倒を見るんだと、そう教えてくれた。

 

「養育費なんか、払ってくれるか

分かんねーからな、あのおっさん」

 

わたしは何も言えなかった。

ただやるせなさが胸いっぱいに広がって、

鼻の奥がつぅんとした。

 

生まれて初めて感じる無力感に

ひたすらに打ちのめされる。

 

唇を固く結んだまま、

わたしは自分の靴へと視線を落としていた。

 

「だから…」

 

消え入りそうな声でそう呟いた後、

和泉は押し黙る。

 

しばらく波と風と、

遠くの方の喧噪を聞いていた。

 

そして次に聞こえたのは、

和泉が鼻をすする音。

 

「お前がパイロット諦めたって聞いて、

それなら俺がなるって思ってたんだけど」

 

涙声だった。

わたしはまだ顔を上げることができない。

 

「でも自衛隊に入ったら、家に、いれないから、

それだと母ちゃん、不安だろうから」

 

たまに嗚咽に区切られながら、

一生懸命に話す和泉。

 

「だから、俺…

パイロットなれなくて、ごめん」

 

そこまで言い終えると、

和泉は肘の内側に顔を押し付けた。

 

視界の端でひっくひっくと

身体を震えさせる彼にかける言葉を

わたしはこの期に及んで見つけられないでいる。

 

「和泉」

 

意を決して顔を上げ、

和泉の方へと身体を向ける。

 

すると和泉は乱暴に自分の顔を

手の甲でごしごし拭いて、

首を横に振った。

 

赤くなってしまった和泉の目元は

いつもと同じように涼し気で、

そしてとても優しい。

 

「いいよ、なんて言っていいのか

わかんないよな。

泣いたりしてごめんな!」

 

よし帰るか、と立ち上がる和泉の背中が

どんどんぼやけていく。

 

振り向いた和泉は

「お前が泣いてどうすんだよ」と笑った。

 

 

 

 

帰り道は自転車をひいて、

2人並んで歩いた。

夕日は沈みかけている。

 

家についたら母にしこたま怒られるだろう。

明日担任や部活の顧問にも、

目から火が出るぐらい怒られるかもしれない。

 

でも、今日という一日を

わたしは微塵も後悔していなかった。

 

むしろ清々しさでいっぱいだ。

 

そして、これだけは和泉に

伝えなければいけないと思った。

 

「うちらずっと友達だからね」

 

 

嬉しかった。

語り合った夢を覚えていてくれたことが。

そして、

ひと時でもわたしの夢を

代わりに見ようとしてくれていたことが。

 

わたしたちはどちらからともなく

手を差し出し、

固く固く握手をして

そして各々の家へと歩き出す。

 

 

 

これが恋にならなくて本当によかった。

キスをしないで、

抱きしめ合わないで本当によかった。

 

それはきっといつか終わってしまうから。

 

わたしを好きにならないでくれてありがとう。

 

和泉を異性として見れなくて、

本当に嬉しい。

 

 

 

ある夏の始まりの日、

和泉と海へ行ったことを

わたしは一生忘れないだろう。

 

 

 

 

和泉が自衛隊に入隊したと聞くのは、

ここから十年近く先のこと。

クロアゲハ

私が見たいとせがんだのか

父の気まぐれだったのか、

今となっては知るすべもない。

 

ただ覚えているのは、

視界いっぱいに広がる無数のクロアゲハ。

耳を澄ませばキラキラと音が聞こえてきそうなほど

眩くはためいた黒い翅が、

今も目に焼き付いて離れないのだ。

 

 

それが私の最古の記憶。

 

あのとき父は確実に

「父親」の顔をしていた。

 

していたんだと思う。

 

記憶の中のその表情は

鬱蒼と生い茂る木々の影に隠されている。

 

 

 

父は私が小学2年か3年の頃に死んだ。

 

2年か3年、としか覚えていないのは

私がこの頃のことをぼんやりとしか

思い出せないから。

 

とにかく、

父は世界から消えてしまった。

 

 

 

 

あれは何年前だっただろうか、

眠れずに弟と長々とlineをやり取りしていた時だ。

 

「お父さんのお墓ってどこにあるんだろうね」

 

確かわたしから言い出したと思う。

どんな話の流れだったのかは忘れた。

 

そう、私と弟は

実の父親の墓の場所を知らない。

 

何故そんなことになったかというと、

母がそれを嫌がったからだ。

 

父の死後、

母は私と弟から父の存在を

徹底的に排除しようと躍起になっていた。

 

葬式はもちろん参加していないし、

そもそもきちんと葬式をあげたのかすら定かではない。

 

死因は心臓発作であるとだけ、

親戚たちの会話を盗み聞きして知った。

 

実の父親の死について何も知らない。

 

このことに違和感を抱きながらも、

私たち幼い兄弟には

それを受け入れるしかなかった。

 

好意的に捉えるとしたら、

私たちの中にトラウマを

残さないためだったのかもしれない。

 

決して良い父親とはいえない、

飲む打つ買うの三拍子。

酒に酔えば声を荒げ、

母に暴力をふるうこともあった父。

 

そんな父の存在が

また未発達な心に暗い影を残さないよう、

母なりに考えた結果なのだろう。

 

死とともに、私たちの脳内から

父の存在を消す。

 

確かに、私自身が父を慕っていたかといえば

断じてそうではないと言い切れる。

 

私は父を恐れていた。好きではなかった。

 

泥酔して血走った眼をこちらに向けるのも、

困ったことがあると甘やかしてくれる自分の兄弟に

連絡を取るところも、

暴力的なところも、反吐が出るほど大嫌いだ。

 

学校の行事だって、

一度たりとも来てくれたことはなく

夏休みの作文が市で表彰されたときも

運動会の徒競走で一位になったときも

褒めてはくれなかった。

 

 

 

 

それでも、と思う。

 

 

それでも、

どうしてもクロアゲハの思い出が

わたしをあの日に呼び戻す。

 

 

愛してほしかった。

植物や生き物に詳しい父に、

もっとたくさんのことを教わりたかった。

 

好きではなかったけど、

好きになる努力をすればよかった。

 

人を愛するのが下手くそで孤独な父に、

もっと寄り添えばよかった。

 

 

しかし、父はこの世界のどこにもいない。

声すらもう思い出せなくなっている。

 

 

 

何日か前のことだ。

 

以前付き合っていた男性から、

一枚の写真が送られてきた。

 

「これ、覚えてる?」

 

 

ある夏、二人で観光地に出かけて

古民家を改装したカフェで

かき氷を食べたときの写真。

 

よく覚えている。

うだるような暑さにバテて

半ば避難するように入ったカフェ。

 

大きな窓が開け放たれていて、

よく手入れされた庭には

色鮮やかな夏の花とともに

みかんの木が植えられていた。

 

そこに、一羽のクロアゲハが迷い込む。

 

 

「俺、この蝶々好きじゃない。

模様が目玉みたいで不気味」

 

彼は苦々しい顔でそう言った。

 

「これ、メスだね」

 

そう呟くわたしに、

彼は少しだけ関心したような声を上げる。

 

「へぇ、分かるんだ」

 

「うん、オスはこの赤い模様が翅の裏側にしかなくて

メスは…」

 

 

メスは両側に模様がついている。

 

 

ぎくりとした。

何故こんな知識があるのか、

どこで覚えたのか。

 

父があの日、

わたしに教えてくれたのだ。

 

紛れもなく、

「父親」の顔をした父が。

 

 

 

なんてことだろう。

父はこんなところにいたのか。

 

イラガの幼虫には毒のとげがあって

触れると痛いことも、

スズメバチがカチカチという威嚇音を出すことも、

教えてくれたのは父だったじゃないか。

 

 

世界から消滅したと思っていた父は、

わたしの知識の中にいた。

 

 

 

わたしはまだ、墓参りには行けない。

向き合うには、心の容量が少しだけ足りないから。

 

いつかそのうちきっと、

この人生を終える前に

父に花を手向けられたらと思う。

 

 

 

またクロアゲハが飛び交う夏がくる。